Past Fair

CONTEXT Art Miami 2022

2022/11/29 - 12/04

CONTEXT Art Miami 2022

2022/11/29 - 12/04
@The CONTEXT Art Miami Pavilion (Booth: B30)

CONTEXT Art Miami 2022 に出展いたします。

MASARU OZAKI は、体験の一部として物理環境と拡張環境を組み合わせた複合現実 (Mixed Reality) と、ガラスケース内でプロジェクション マッピングを使用する物理拡張彫刻の第一人者です。
立体物と光による、いわゆる彫刻でも単なるイルミネーションでもない、個性豊かな「光の彫刻」を発表。 誰も見たことのない作品を発表しますので、ぜひ実際に作品をご覧ください。

MASARU OZAKI「Way to Go」
MASARU OZAKI「Way to Go」

OZAKIの見せる哲学「ヒトと光の関係」

光の動きを投影して人に感情を生じさせる装置を私たちはこの100年間享受してきた。それは言うまでもなく映画である。エジソンがアイデアの原型を作り、リュミエール兄弟が1895年に発明したこの装置は私たちの娯楽と啓発を一手に引き受けてきた。

一方、モニターとコンピューターが発展した1970年代、私たちは動く輝点があたかも実際の球がそこにあるかのような錯覚を利用した「テーブルテニス」や「ブロック崩し」などのアーケードゲームの形で人工の光にもう一度出会うことになる。

だが、尾崎のアートは、そこからさらに一歩進んで、人と光の関係の新しいページを開くものである。

ヒトと光の関係について、もう少し根本的なことを考えてみましょう。

だが考えてみよう。私たち人類は太古の昔から二つの光と出会い、それに生かされている。ひとつめは太陽の光だ。私たちの文明、そして私たちを含む自然そのものを作った光だ。そして炎。私たちの祖先が自らも発生させることができる事を見つけたもうひとつの光だ。

この二つの光は自然と文明の象徴でもある。そして私たちが何かを「見る」と言うとき、必ず「光」を見ているわけで、私たちの受け取る「世界」そのものを形作るのが光の役割で、私たちは常に光に祝福され、生かされている存在である。

MASARU OZAKIの作品は光がそもそも自然と私たちの生命の根源にどうかかわっているのか、そうした啓示を与えてくれる。

「映画」「ビデオゲーム」は光を手にした人間が光の動きを「利用」した装置だが、彼の作品は、そもそも光とその動きというものと私たちの関わりを「問う」ものであり、私たちを瞑想と自然への哲学に導く。

MASARU OZAKI「Pit Fall」
MASARU OZAKI「Pit Fall」

彼のもっともプリミティブな作品は、光のボールが上から落ちて、何かの棚に引っかかり、跳ね返ったり、横に跳ねたりして、下に落ちていくものである。一見すると、私たちが幼少期に見てきたテレビゲームの単純なバリエーションとして見過ごしてしまう作品だ。注意の足りない人間は、これを単なるオモチャとして気にもとめないだろう。だが、ひとたび注意を払って見ると、このボールが、同じ動きを二度としないことに気づかされる。そして、そこに何か障害物があるように見えて、障害物があったりなくなったり、移動したり、反射率が変わったり、状況が変化してしまうことに気がつくだろう。ごくまれに、自然ではありえないような動きをすることで、この装置の中の世界では、なにか特殊なルールで物事が動いていることに気づかされる。

実はこのボールは、コンピューターによる計算で動いてはいない。すべてOZAKIが精緻に描いたアニメーションでボールが動いている。「いかにもありそうな動き」も「ありえない動き」も、彼が何ヶ月、何年もかけて作成した駒送りの静止画が元になっている。なぜ、このアーティストは、このような手間のかかることをわざわざするのだろうか。もし、彼が「効率」を優先するのなら、彼はコンピューターに重力のシミュレーションをさせたらよい。彼がそれをすることは、実に簡単なことだ。そして、もし誰も何も説明しなければ、多くの人がコンピューター計算の結果だと思うかもしれない。

その答えのヒントは、彼のさらに精妙な動きを見せる他の作品に見ることができる。例えば「Just Around The Corner」では、物理的に存在する小さな段差のある壁と床に、雨の動きが投影されている。雨のひとしずくひとしずくが描きこまれ、私たちが生活の中でよく目にする地面での水の小さな反射、風が吹いたときの微妙な雨の束の揺らぎ、たまった水が段差から時折したたり落ちる描写などが繰り広げられ、幼い頃、雨で外に出られずじっと庭を眺めていた誰にでも記憶にある光景が浮かんでくる。ここでもコンピューターによる計算は一切採用されておらず、膨大な時間を使ってOZAKIが動きを手で描いている。

そこで人は気づき始める。これは自然そのものへの畏敬を表現したものだと。これはシミュレーションではなく、OZAKIの身体で濾過したひとつの自然そのものであると。日本人には、庭によく「鹿威し」というものを設置する習慣がある。それは川の水を庭に取り入れて、一定の時間ごとに溜まった水の重さで傾いた竹が石に打ち付けられて心地よい音を出す。名前が表すように、もとは動物よけだったかもしれないが、今は人が自然を感じるための道具となっている。OZAKIのアートはこのシシオドシを現代テクノロジーを使って深めたものと考えることもできるだろう。

彼の作品には、太陽光の動きを表現したものがある。神殿のような白いミニチュアがボックス内に設置され、日光が影を落とす様子が描写される。朝、昼、晩の時刻を感じさせる影が絶妙の動きを見せる。実は、影には物語があり、抽象的な建物が投影されている。OZAKIは軽々には語らないが、その見えない建物群は注意深く観察する者だけがわかる黙示録的な意味合いが込められているらしい。エジプトのピラミッドがそうであるように、その場所が表す暗号は、発見者が現れるまでは沈黙している。アートは饒舌でありすぎてはいけない、とOZAKIは思い定めているようで、OZAKIの作品群は様々な象徴や意味が込められているが、その内容を彼は示唆するものの、すべては語らない。

この作品をじっと見ている者たちは気がつくはずだ。建物に映る別の建物の影の形、色に、私たちは「小さな時刻」と「大きな歴史の時間」そして「自然」そのものを日常に感じていることを。

彼はプロジェクションマッピングの世界的なプロフェッショナルであり、一つ一つの作品についても、絶対に真似のできない様々な技術が使われているが、そうしたオリジナルでかつ高度な技術があることにも、人は言われなければ気がつかない。例えば彼の作品のいくつかは、光源が隠されている。どう見ても光源を探ることができない。また、多くの作品は、物理的な彫刻がアクリルケースの中に包まれているが、どのように分解すればよいのか、全く分からないようにできている。探してみるとわかるのだが、多くの作品でネジは一本も見つからない。これは作品が日本の伝統的建築技法である寄せ木細工に近い方法が使われているようなのだが、それもほとんどの人が注意を払わないだろう。

これ見よがしの技術を見せるのではなく、誰も気がつかないことに高度な技術を使うところも彼の哲学が現れている。アートは洗練され、品位がある。

では彼が沈黙のアーティストであるかと言えばそんなことはない。彼の哲学と経験が作品群には稠密に込められているが、それでも彼自身の持っている膨大な情報量のすべて入りきる訳ではない。彼は実際のところ饒舌である。饒舌であるが、言わなくてもよいことは喋らない。ちょうど彼の作品がそうであるのと似ている。

彼の作品の中心課題はただひとつ、自然への畏敬の念であり、自然と共にある人間の哲学である。

私たち人類の一人ひとりの個性がどうであれ、人類の運命がどこにいくのであれ、どちらにせよ、私たちは自然に生かされているし、自然の一部である。それをはっきり感じる為には、私たちは森に入ったり、山に登ったりするのが一番かもしれない。だが、OZAKIの作品は、時にはそのこと以上に、自然というもの、光というもの、そして私たち人間と自然の関わりについて、示唆をもたらしてくれる。(田中千秋)

Artist

MASARU OZAKI