ART SHODO EDGE
2023/02/23 - 03/18
@GALLERY SCENA. by SHUKADO
書家の山本尚志氏を中心に活動の場を広げる新しい書の運動「ART SHODO」。
今回は、選りすぐりの8名の作家と 井上有一、篠田桃紅をはじめとする近代書家の作品を対比しながら、現代美術としての「書」をご紹介します。
日本における前衛書道が隆盛を誇ったのが1950年代のこと。その後半世紀以上が経ち、日本の書道界は閉鎖的になり、アートの文脈からは完全に逸れてしまった。その理由は、書道界が師匠と弟子という権力構造を崩さなかった点にあり、新たな発想を持った若手のアーティストがなかなか登場できなかったのだ。本展は、戦後の前衛書の時代に作られた作品と、今の現代アートとしての書道とを対比させるものである。
グウナカヤマは、自分で文字を作る。公共性を伴わないそれらの行為は、一見突拍子もないことであり、滑稽なことのように映るが、本人は大真面目だ。自分が目で見たもの、そして触れたもの、それはすべて記号化できるのだと、彼の作品は語っている。その作品の発表をもって、彼はそれを宣言しているのだ。
熊谷雲炎は、文字を人の形に浮かび上がらせ、何かを訴える。それは、一つのメッセージになっており、文字や言葉そのものだけではまだ足りない面を、その内側に包括しているのだろう。それはきっと、彼女が言葉を紡ぐときに、そのアクションの仕草が、自然に人を描くことの中に現れている。それは、他の誰かの肖像なのか、自身の姿なのか。
七月の鯨の作品は、書道のカテゴリーを広げる試みである。ときには彫刻のこともあり、ときにはタイポグラフィーを思わせることもある。そしてそれは文字を侵食させるという、はかないものとして常に描かれる。言語芸術としてのそれらの作品群は、我々同様、いっときの生命体として、その姿を現す。
文字、すなわち言葉とは、人をいかようにも操れると作品の中で雄弁に語っているのが、すずきのりこだ。描かれている作品の中のキャラクターが何かを話すとき、それは見るものを時に欺き、時に納得させる。言葉と一定の距離を取りながら、アクションを繰り返し、そしてアーティストも同時に思考する。そんな姿が見てとれる。
一文字の中に、人の多様性の片鱗を閉じ込め、それを繰り返す。同じ文字でも形が違うので、それぞれに意味が異なって見える。それが、作者である滝沢汀の一流のイリュージョンであり、彼女が言葉を書く意味でもある。同じ文字はもはや同じ意味を持っていないと、そう言わんばかりに。
建築家を志したこともある田中岳舟の書いているものは、全て「あるスケール」を持つ「らしい」。それは曖昧模糊として、誰も証明する者はいない。しかしそもそも、芸術そのものが数式や数の単位をもって、表されるものでもないわけで、そこに思い至る時、我々はすでに彼の作品の術中にはまっている。複層的なフィクションの中のフィクションが、そうさせる。そんな言語芸術。
僧侶でもあるNangaku Kounは、常に己と作品の中の距離をゼロにする試みをおこなっている。作品はそのまま「彼」であり、どの作品を見ても、そこにアーティストの姿が常に浮かび上がってくる。奇異に映るそれらの試みは、すべて別々に行われ、同じイメージで書かれたものとは到底思えない。そこに生じているのは、諸行無常の具体的な形だと言えよう。
私、山本尚志は、モノにモノの名前を書くというスタイルを持っている。その同語反復的な試みは、時にその狙いを外れ、暴走することもある。しかしそのズレをも楽しむことが出来るのは、言葉を書く行為が、そもそも取るに足らないことからスタートしているからであり、それが、書というものの本来の姿だと思っているからだ。何かを示そうとして、実はいつも失敗している、そんなプリミティブな造作であるのだと。
山本尚志(書家・現代アーティスト)