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メディア掲載のお知らせ:展覧会評「立ち顕れる―生きられた世界の見取り図」
2025/08/18

このたび、『美術評論⁺』にて、奥山帆夏、木下理子、澤田光琉、白石効栽、竹林玲香によるグループ展「立ち顕れる―生きられた世界の見取り図|Drawing the World Near in Silent Observation」(2025年7月5日〜7月19日/GALLERY SCENA.主催)の展覧会評を掲載いただきました。
美術評論家・山内舞子氏による評論「21世紀絵画と気象学」では、本展の作品や展示構成に高い評価が寄せられ、現代絵画における新たな視点が気象学的観点とともに論じられています。
展評では、出品作家5名それぞれの表現に対する丁寧な分析とともに、作品と空間との関係性についても深く掘り下げていただいています。ぜひご覧くださいませ。
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展覧会評「21世紀絵画と気象学」山内舞子 評
アメリカの数学者ノーバート・ウィーナーは『サイバネティクス』(初版1949年)において、天文学と気象学について次のように述べている。
「この二つの科学は、どちらもわれわれの頭上の天空のことを扱っている点で共通であるけれども、その他のほとんどすべての点では極端な対照をなすものである。天文学は最も古い科学であるが、気象学はようやく最近科学の名に値するものとなってきたばかりである。天文学上のよく知られている現象は何世紀にもわたって予報できるが、明日の天気を正確に予報することは一般にやさしいことではなく、いろいろな点で非常に未熟なものである」。(第1章 ニュートンの時間とベルグソンの時間)
2025年7月5日から19日までGALLERY SCENA.で「立ち顕れる―生きられた世界の見取り図|Drawing the World Near in Silent Observation」が開催された。

GALLERY SCENA.は2022年に原宿で開廊。銀座で古美術や近現代美術を扱ってきた秋華洞が、現代美術に特化した画廊として設立した。2025年2月以降はそのスペースを一旦クローズし、新たな移転先を検討しながら、アークヒルズフロントタワー内にて企画展の開催中のみオープンするという形態で活動している。
筆者が訪問したのは、晴れ間と風雨が繰り返しやってくる気まぐれな天気の日だった。首都高や高層ビルに囲まれたメトロポリタンなムードが漂う立地ではあるが、1階にあるこのスペースは前面がガラス壁となっており、目の前で街路樹がざわめく様子や、雨宿りのため軒先に佇む人の姿が見られ、室内にいても日常と地続きであることが感じられた。
このスペースでは初めての企画となる「立ち顕れる―生きられた世界の見取り図|Drawing the World Near in Silent Observation」は同廊の田中碧のキュレーションによるものだ。そこで焦点とされたのは、作家が造形のルーツとなるものを「引き寄せて」それが作品として「立ち顕れる」までのプロセス。筆者が見たところ、展示は3つのエリア―すなわち、前面のガラス壁に沿った部分、ホワイトキューブ、そして床の間とソファーのある少し薄暗い小部屋に分けることができた。
出品作家は1990年代生まれの5名。作品が視覚的に目に入る順にその名を挙げれば、木下理子、奥山帆夏、白石効栽、竹林玲香、そして澤田光琉、となろうか。
ガラス壁に沿った部分に展示されていたのは、木下理子によるインスタレーションと、奥山帆夏によるペインティングだ。このうち木下のインスタレーションには二つの系統がある。ひとつは寒冷紗を薄黄色に彩色してジャバラのように仕立てたもの、もうひとつはアルミホイルを使った平べったいものだ。前者については、筆者は過去に個展 「LAND」(2022年、Gallery & Space TATSUMI)でサークル状の大型作品を見ている。それは三方を窓に囲まれた明るい空間の中央に自立しており、外光の角度や加減により表情を変えるさまは、おのずとモネの連作を想起させた。今回の作品《光子》については、温湿度の影響を受けて形状が変化する仕様となっているそうで、この日はいつもよりふにゃっとしているとのこと。後者の《typo》は風鈴や釣忍のように揺れることで、空気の流れを可視化していた。なお、奥山のペインティングについては、あらためてホワイトキューブ内の作品を中心に言及する。


そのホワイトキューブに進むと、まず目に飛び込んでくるのが正面の壁にある竹林の《Minakami》だ。その構図と筆致から、筆者は直感的に雪舟の《慧可断碑図》を連想した。東アジア絵画において、岩や山を描く方法は皴法という名のもとに理論・体系化されてきたが、キャンバスにアクリルと油彩という画材でそれが実践された本作においては、深遠さと軽やかさが共存しており、この作家の画技の高さが窺えた。
加えて、その左隣りにはセラミックによる同名の小型作品が展示されている。双方の関係性については明文化された情報が添えられていないため想像する以上のことはできないのだが、異なる媒体による物質を共通の名詞のもとに並置させるという手法に注目してコスースの《One and Three Chairs》をヒントに解釈を試みれば、同じ主題が別の文法を通じて再解釈されたものと捉えることも可能かもしれない。あるいはその物理的堅牢さと外圧を受けたような表現に着目すれば、結晶的な何かにも見えてくる。

動線的にはこの空間の本来のスタート地点と思われる右側の壁には、白石効栽の《夕日と桃畑》があった。そこで使われている赤は、視覚の隅に入るだけで「何だろう?」と思わせるような強さを持っている。彼は韓国で生まれ育ったが長野で暮らした時期もあり、その作品のなかには、《雪国への帰路》のようにふたつの地の往復にちなんだものや、長野ゆかりの日本画家へのオマージュが反映されたもの、あるいは「土地」という存在への関心が現れたものなどがある。

白石の作品の奥に続くのは、木下理子による、こちらはサイアノタイプのシリーズ。いわゆる青写真と呼ばれる技法で、印画紙を露光する際にその一部を光から遮ることで、イメージを白抜きのように浮かびあがらせている。ただし、彼女の制作方法では、思わぬかたちで気象条件の影響を受けることがあり、作品の一部にはその痕跡が残されることも。木下はこの技法について「その⽇の太陽の光と⾵に現像を委ねることで、最終的な形状を⾃分の意思から少し遠ざけています。」と述べている。陶芸の世界では窯の中で炎が偶然に生み出した表現を「景色」と呼んで鑑賞の対象とすることがあるが、人間のコントロールが及ばないものによる介入を受け入れる、というよりむしろそれを必要とするような木下の制作作法は、この美的慣習に通じるものがあるように思う。
白樺の木立ちを爽やかに描く奥山帆夏の絵画は、一見すると今回の出品作品の中では最も写実的といえるかもしれない。だが、美術に関心がある者であれば、その端などに存在する「塗り残し」を無視することはできないだろう。なぜならそれは、20世紀の絵画に絶大な影響力を与えたセザンヌの絵画にしばしばみられる特徴だからだ。よく見ると木々とその隙間の前後関係や遠近感もなんだか怪しく思えてきて、「絵画とは何か」という問いが濃厚に漂ってくる。先述の白石の作品が「風景を描いている」ものだとすれば、奥山のそれは「画面を作っている」と言えそうだ。

澤田光琉は紙に鉛筆というシンプルな画材で、淡いコントラストによるモノクロームの世界を生み出す。そのおぼろげな様子は、まだ黎明期だったころの写真技法による画像を思い起させる。英語のphotographはphoto(光)とgraph(描く)による造語であるが(ゆえに日本ではかつて光画と訳された時代もあった)、「暗い場所で徐々に景色が目の前に現れてくるように、理解を通じてものごとの機微を捉え、少しずつ自分のなかでそれを形作りたい」と述べる彼の言葉からは、そのプロセスそのものが、まさしく暗箱のそれと重なり合っているように思える。
奥の小部屋でひときわ強い存在感を放っていたのは、床の間の全体に広がる木下の《ghost》、もうひとつは壁面に掛けられた白石の《untitled》。前者は中心性の不在というものが、床の間に据えられることにより一層際立つ。一方で、後者は絵の具箱の中のビリジアンのように不自然な緑色と、樹木の幹を縁どる輪郭線がいかにも人工的だ。試みとして、この部屋のテーマを見出そうと試みれば、虚構的である、ということになろうか。

絵画というものは、かつて19世紀頃までは確実な再現性をめぐる方法論の確立が追及され、トレーニングを積めば誰もが同じように「それがそこに存在するように」描くことができるようになった。しかし現在は、そのようなオーソドックスな描き方と、どのようにして、どの程度、距離をとるかということが、画家の多くが抱く関心事や課題となっている。そしてそこでは、外的であれ内的であれ「不確かなもの」が、とても重要な意味を持つ。冒頭のウィーナーの言葉を借りれば、21世紀の絵画は、専ら気象学的であるといえるのかもしれない。
山内舞子(美術評論家)